ハミングバード
オーブンの中をのぞき込んで、ダンテはうわ、と声をあげて顔をひきつらせた。
そこに広がっていたのは、焼きすぎて黒く焦げあがった二人ぶんのチキン。本当ならほどよい焼き色と食欲をそそる香ばしい香りが彼を迎えてくれるはずだったのに、想像していたものとはずっと違う、真っ黒な焦げ色のドレスをまとったチキンがそこにはいた。
これではネロにどやされてしまう。あれは見た目よりもずっと子どもな部分があるから、この惨状を見ればきっとダンテが呆れはてるくらい怒るだろう。しかもこのローストチキンはネロからのリクエストだった。今は出かけていていないけれど、もうそろそろ帰ってくるはずの時間だった。
「参ったな」
頭をぼりぼりかきながらダンテは消し炭みたいになってしまったチキンを見下ろす。とりあえず焦げた部分をナイフでこすってみる。ぱりぱりと乾いた音をたてて焦げがはがれおちた。
できるところまでこそげ落としてみて、多少の焦げは我慢してもらおう。かなり不格好な出来になってしまうが、背に腹は代えられない。ダンテは悪魔と対峙するときよりもずっと真剣な表情でチキンとにらみ合っていた。
ペティナイフを動かしながら、ダンテは焼きすぎてしまった言い訳でも考えようと思った。言い訳もなにも、単にオーブンで焼いているのを忘れて雑誌を読みふけってしまっていたからなのだが、そのまま伝えてしまえば間違いなく右腕が飛んでくる。もう少し「らしい」言い訳をしなければ。ダンテは己の保身のために全力で頭を回転させていた。
「ただいま」
玄関の方から声がした。ネロだ。聞いていた時刻よりも少し早めの帰宅だった。こんなときに限って早く帰ってくることないだろうに、ダンテは小さく歯噛みした。
「おかえり、早かったな」
キッチンから出てきてネロを出迎える。いまキッチンに行かれては困るので、なんとしても遠ざけなければならなかった。
しかし、ネロは浮かないような面持ちでああ、と生返事をしただけでさっさと二階へ行ってしまった。
「どうしたんだ、あの坊やは」
ダンテは首をかしげる。のぞき見えた顔からは、消沈しているというよりもどこか興奮しているような色が見てとれた。落ち込んでいるとか悲しんでいるとか、そういうものではなかったので、とりあえず心配はしないことにした。あまり気にかけすぎると逆に怒りだすのだ。この年頃の若者はみんなこうなのだろうか。ちょっとしたことで感情がころころ変わるのでとても扱いづらかった。
なんにせよ、ネロがこちらの様子を気にかけていなかったのは好都合だった。今のうちに食事のしたくと焦げだらけのチキンをなんとかしなければ。ダンテはそそくさとキッチンへ向かった。
階段を上がりながら、ダンテは考えあぐねていた。あれからネロを怒らせないようにする方法をあれこれ画策してみたけれど、どれもいまいちだった。問題のチキンは最初よりも多少ましになったものの、やはりひどいありさまには変わりなく、これ以上のごまかしようはもうなかった。
このままではバスターのひとつも覚悟しないといけないだろう。ダンテは自分が固い木の床に思いきりたたきつけられるさまを想像して背筋がすうっとなった。いや、もしかしたら床ではなく壁にたたきつけられるのかもしれない。パイ投げをするときみたいに。あの坊やのことだ、きっと加減なんてしてくれないだろうから、本気の本気で投げつけられるのだ。いくらダンテでもそれはやっぱり嫌だった。
ネロの部屋の前に立つ。薄い木製のドアひとつを隔てて、ダンテのちいさな憂鬱の根源はそこにいる。ダンテがノブに手をかけてゆっくりと回すと、音もなくドアは開いた。
おそるおそる中をのぞき込むと、ベッドに座っているネロの丸まった背中が見えた。なにかを眺めているのか、うつむいたまま動かない。
ダンテは開いたドアのすきまにそっと体をすべり込ませ、部屋の中に足を踏み入れた。ネロの部屋はきれいに整頓されてさっぱりとしていた。服も散らかっていないし、酒の瓶も落ちていない。足の踏み場もないくらいに散らかっているダンテの部屋とは大違いだった。
性格のせいなのか、それともしつけがよかったのか、ネロはとてもきれい好きで、いつもダンテの部屋を見るたびに「少しは片づけろよ」とあからさまに嫌そうな顔をするのだった。別に誰かを招くわけでもなし、散らかってるくらいいいだろうと言うと「俺が嫌なんだよ」とぶつくさ文句をたれていたのを覚えている。
ドア付近に立ってネロの背を見下ろす。彼はなにかを手にしてじっとそれに見入っているようだった。その後ろ姿は声をかけるのもためらわれるほどに真剣そのものだった。いったいなにがネロをそんなに夢中にさせているのだろうか。気になったけれど早くしないとせっかくの食事が冷めてしまう。ダンテはネロのその丸まった背に向かってひかえめに声をかけた。
「…坊や、飯だぞ」
するとネロはびっくりして「うわあ!」と声をあげた。弾かれるようにふり返り、持っていたものをあわてて枕の下に隠していた。
「黙って入ってくんなよ! ノックくらいしろよな!」
顔を真っ赤にしながら声を荒げるネロはまるでいかがわしい雑誌を親に見つけられて焦る年頃の男子のようだった。いや、もしかしたら本当にそうだったのかもしれない。それならば邪魔するのは野暮というものだろう。ダンテはにんまり笑うとうんうんと頷き、ひとりで勝手に納得した。
「坊やもそんなお年頃なんだな。わかるぞ、誰しもが通る道だからなあ」
「はあ? あんた何わけわかんないこと言ってんだよ」
ダンテはぽんぽんとネロの頭を軽くたたき、「早く降りてこいよ」とだけ言うとさっさと部屋から出て行ってしまった。ぽつりとひとり残されたネロは不思議そうに首をかしげ、「わけわかんねえ」と独りごちた。
テーブルにひじをついてダンテはぼうっとネロを待った。
彼が楽しみに待ちわびていたはずのチキンのこのかわいそうなありさまを見たら、きっとがっかりしながら「こんなの食わせる気か」なんて言うに違いない。もしもこれがネロではなくダンテが遭遇したとしても、たぶん同じような感想をもらすだろう。
ダンテは別に料理が下手なわけではない。面倒なのでたまにしか作らない料理ではあるけれど、ネロはいつも喜んで食べてくれた。今日はたまたま焦がしてしまっただけだ。言い訳がましく胸の内でつぶやき、気落ちしてため息をつく。
すると階段の方からぱたぱたと歩く音がした。ネロが部屋から出てきたのだろう。耳だけを傾けてダンテは彼を待った。のろのろと一段ずつ階段を降りてくる音がしたあと、降りきった足音がそのままこちらに近づいてくる。そしてダンテの眼前にひょっこりとネロが現れた。ネロはテーブルに置かれた大きな皿を一瞥して、ぎょっとする。
「なんだよこれ。あんた、俺にこんなの食わせるつもりだったのかよ」
驚きと呆れが半分ずつ混ざった声色でネロは言う。
(…やっぱり言った)
ダンテは苦笑した。飛び出したネロの言葉がまさに考えていたそのままで、それがおかしくて口もとをゆるめる。ネロはいきなりにやけだしたダンテのしまりのない顔を見て眉を寄せた。
「なに笑ってんだよ。気持ち悪いな」
「ん、いや、坊やの言いそうなことはお見通しだってことさ」
やに下がったままの顔でダンテは言った。
「意味わかんねえ。あんた、頭おかしいんじゃねえの」
ネロはダンテの言動がいかにも理解できないというふうな顔をして見下ろす。言われたダンテはしょげた様子で眉尻を下げていた。
「頭おかしいとか言うな。俺だって傷つくんだぞ。いいからほら、座れ。せっかくの飯が冷めちまうだろう」
ダンテに一気に言い募られ、ネロは訝しみながらも席に着く。しかしそれ以上文句を言うこともなく、いただきます、と一言置いてから彼はおとなしく食べはじめた。
思っていたよりもネロが怒らなかったことにダンテは内心ほっとしていた。ちいさなことでいちいち癇癪を起こされてはこちらの身がもたない。自分が若いころはいつも面白おかしく過ごしていたのになあとダンテは思う。普段からあまり怒るということがないから、ダンテはネロの沸点の低さには呆れてばかりだった。
「食わねえの」
ダンテが一向に手を動かさないことを不思議に思ったのだろう、ネロは咀嚼しながら言った。
「ああ、そうだな。俺も食うかな」
思い出したように食べはじめるダンテをしばらく見やる。そしてそこから視線をはずすと、ネロはぼうっとどこかを眺めていた。なにかを見ようというよりも心ここにあらずといった感じで、その目はまるで焦点が合っていなかった。
見た目よりも味が悪くないことにひと安心しながらダンテが顔を上げる。ネロは手元の皿を見つめていた。なにがそんなに気になるのだろうと一瞬思ったけれど、すぐにそうではないことに気がつく。これはなにか考え事をしているときの表情だろうと直感的に感じた。
いつもは食いのいいネロが、今日は手を止めたまま動かない。心配事か悩み事か、はたまた違う何かか。考えていると、ふとダンテは先の部屋でのやりとりを思い出した。
もしかしたらさっきの出来事を気にしているのかもしれない。それならば悪かったと思う。
「どうしたんだ坊や。さっき俺が部屋に黙って入っていったのがそんなに嫌だったのか」
しかし、予想に反してネロは顔を上げるとはにかんだ笑みを向けてきた。
「いや、なんでもない。気にしなくていいんだ」
その笑顔がどこか無理をしているような、悲哀を含んでいたように思えて、ダンテは真面目な面持ちでネロの目をのぞき込んだ。
「そんな顔でいられたら、誰だって気にするだろう。いいから話してみろ。なにかあったのか?」
ダンテの目から、からかいの色が消えた。いつもの人を小馬鹿にするような雰囲気は微塵もない。すっと冷えたまなざしがネロを射抜く。
ネロはダンテの真剣な表情に弱かった。その瞳はなにも言わずとも彼の心のうちを雄弁に物語っていて、ネロはそれを見るたびにむず痒くなるような、こそばゆい感覚に陥ってしまう。だからいつも目をそらさずにはいられなくて、結果的にそのままダンテのペースに乗せられてしまうのだった。
「悩み事か? なにか嫌なことでもあったのか?」
たたみかけるようにダンテは言う。心配してくれているのだろうと、うつむいたままのネロは少し嬉しくなる。けれど胸のうちにあるもやもやははたしてダンテに消せるのだろうかとも思った。
でも、もしかしたら少しはすっきりするかもしれない。話してみるだけでもなにかが変わるかもしれない。ダンテが霧払いをしてくれるならと、そう思いネロはそっと顔を上げた。
「…あのさ」「ネロ」
ネロが口を開いたその瞬間、ちょうどタイミングよくダンテの言葉と重なってしまう。ふたりはおかしくて思わず吹きだした。
「ああ、悪い。なんだ坊や、言ってみろ」
くつくつ笑いながら、ダンテが腕組みをする。はじめネロは言いにくそうにもぐもぐ口を動かしていたが、やがてひと呼吸おくとあのさ、と言い直した。
「あとでちょっと、付き合ってもらってもいいか」
ひかえめに言うネロは期待に満ちた顔をしている。ダンテにはそれが不思議でならなくて、悩んでいるのではなかったのかと首をかしげた。
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