ハミングバード(2)
 

 

   連れてこられたのは、ダンテの事務所からは少し遠いところにある通りだった。にぎやかな一角ではあるが、建ち並んでいる店がいまどきの若者向けのものばかりなので、ダンテにはあまり縁のないところだった。
   ひきずるようにしてダンテの手を握り前を歩くネロはダンテがびっくりするくらい早足だった。ほのかに上気した顔がりんごみたいに赤く色づくのも気にせず、ネロはずんずん前へ進んでいく。ひっぱられているせいで足もとがおぼつかず、たまにつま先が何かにひっかかってあやうく転びそうになることもあった。
   動く歩道のように流れる人の波をかきわけ、その流れをさかのぼる。今日が世間一般で言う休日ということもあって、その密度の濃さは半端ではなかった。こんな大変な思いをしてまでネロが見せたいものとはいったい何なのだろう。派手な格好をした若者と肩をぶつけながらダンテは首をかしげた。
   そのまましばらく進んでいくと急に人の波が消えうせ、開けたところに出た。息苦しさを感じていたダンテはほっと息をつく。そこでネロは急に足を止めた。それでもまだ手はつながれたままで、強く握られたところがじんじんと痛みはじめていた。着いたのだろうか。気になってネロの顔をのぞき見る。
   ネロは、食い入るようになにかを見つめていた。つられてダンテもそちらに目をやる。その視線の先には、地面に座ったまま噴水のふちにもたれてギターをかき鳴らし、ぎこちなく歌う若者がいた。決してうまいとは言えなかったが、荒削りながらも若さと勢いのある歌声だった。見渡すと、その若者のほかにもストリートミュージシャンらしき者たちがいくらか見られた。ネロが見せたかったものはこれだったのだろうか。
   もう一度ネロのほうを見ると、さっきまでのはやる気持ちをおさえられないといった表情は、羨望のまなざしに変わっていた。
「歌、好きなのか」
   どう言えばいいのかわからなくて、ダンテはしばし考えてから口にした。ネロはストリートミュージシャンを見つめたままこくりと頷く。あまり見たことのない、憧れを含んだ熱いまなざしだった。
   きっとネロはこういうことをやりたいのだろう。ダンテは思い至る。事務所でもたまに鼻歌でメロディをなぞったり、流行りの歌かなにかを口ずさんでいたりするのを見かけたことがある。しかしネロが大きな声で歌っているのを聞いたことはなかった。だからネロがどんな声で歌をうたうのかをダンテは知らない。
   もし遠慮したりしているのならば、そこはかわいい同居人のため、善処してやりたいところだった。
「あんなふうに歌ってみたいんだろう、坊や」
   言うと、ネロははっとしてダンテを見た。その目にはかすかな期待がにじんでいた。
「坊やの言いたいことはよくわかった。よし、帰るか」
   返事を待たずに、ダンテは頷き、踵を返す。
「あ、ちょっとおっさん、待てよ!」
   さっさと歩いて行ってしまうダンテを、ネロはあわてて追いかけた。



   帰ってくるなりダンテはどこかへ消えてしまった。それを少しだけ気にかけつつ、ネロはコーヒーを淹れるため湯をわかした。テーブルに腰をおろしてだらしなく肘をつき、ドリッパーからぽたぽたと落ちるしずくを焦点の合わない目で見つめた。
   ダンテがどう思ったのかを、ネロが知る術はない。帰る道すがら、彼は無言だった。あんなにくたびれながら歩いたのにこれだけか、とか思っていたのだろうか。教えろと言ってきたのはダンテのほうなのだから、なにか感想のひとつくらい漏らしたっていいだろうに。ネロはふくれた。
   不意に、頭上で物音がした。ネズミが歩き回っているのかとも思ったが、どうやら物音は二階から聞こえてきているようだった。事務所にダンテとネロ以外はいないはずなので、おそらくダンテの仕業だろう。まさかこんなところに泥棒など入ってくるわけもないだろうと、ネロは気にするふうでもなく戸棚からカップをふたつ取り出した。
   そそいだコーヒーに顔を近づけて息を吸い込むと、芳醇な香りが鼻腔いっぱいに広がった。先日奮発して買ったばかりの、ダンテお気に入りの豆だった。ネロは満足してカップをふたつ持つと、キッチンを出た。
   するとそこを出たすぐのところで、ダンテとはち合わせた。びっくりしてコーヒーをこぼしそうになり、不満を込めたまなざしでダンテをにらむ。道をふさぐようにつっ立っていたダンテは「悪い」と申し訳なさそうに言って、それからなにかをネロの前に差し出してきた。
「なんだこれ…ギター? あんたこんなの持ってたのか」
   それはいかにも古めかしいクラシックギターだった。あまり楽器には明るくないネロだが、素人目から見ても高価そうなギターで、ダンテにこんな趣味があったなんて知らなかったと彼の意外な一面におどろきを隠せなかった。
「しばらく弾いてなかったからな、音がだいぶずれてる。弦もひどい」
   ダンテはソファに座るとさっそく構えてみせる。弾いてくれるのだろうか。ネロはひそかに期待した。テーブルにコーヒーを置き、ダンテの向かい側に腰を下ろすとネロはまじまじとその様子をながめる。年代もののギターはダンテの腕の中にすっぽりと収まってとてもよく映えていた。
   弦のひとつを指ではじいて、それからネックの上のヘッド部分についているチューニングペグを回してみる。それを何度も繰り返して、納得のいく音になったら次の弦にいく。そうやって全部の弦のチューニングを終えたらまたひとつめの弦の音を確かめて、結局それぞれ二回ずつ音を合わせていた。
   なかなか堂に入ったものだと、その作業をネロは憧憬しながら見つめる。なによりそのときの慣れた手つきのダンテはとても格好よかった。初めて目の当たりにする光景に、ネロは純真無垢な子どもみたいに目をきらきらさせて魅入っていた。
   チューニングを終えると、ダンテはぽろぽろと適当に弾いてみせる。しかしすぐに困った顔でううむ、とうなった。その様子さえも様になっていて、ネロはますます興味津々だった。
「こりゃ弦替えないとダメだな」
   経験者からすれば、ひどい音なのだろう。しかしその違いがネロにはわからなかった。それよりも、ギターを弾くダンテの姿をもっと眺めていたかった。どうせなら一緒に歌のひとつも歌ってくれたりしないだろうか。
「なあ、弦なんていいから、弾いてみせてくれよ。おっさんが弾いてるの、もっと聴きたい」
   ネロは乗り出してダンテの顔をのぞき込んだ。するとダンテは食い下がるネロを制して言う。
「なに言ってる。聴かせてもらうのはこっちのほうだ」
   言われて、ネロはダンテの言葉の意味が理解できなかった。なにを言っているんだと眉を寄せると、ダンテがくつくつと笑った。
「坊や、歌が好きなんだろう。さっきそう言ってたよな」ダンテは言い聞かせるような声色でネロに言った。「俺に遠慮してるんだったら、それは気にしなくていい。歌いたいんだろ?」
   ……なんだって。
   ネロの頭の中でダンテの声がぐるぐる廻る。含み笑いを浮かべてダンテはネロを見ていた。ネロはテーブルに身を乗り出したまま、目をぱちくりとさせた。普段なら殴りつけたいくらい憎たらしい笑みなのに、それが今は天使のほほえみのように輝いて見えた。
   今までは迷惑になるだろうとダンテに気を使ってしまって、ろくに鼻歌も歌えなかったのに。
「…う、歌いたい」
   あまりの嬉しさに声が震えていた。
「多少なら弾いてやれるから、好きに歌ってみろ」
   ネロはさらに耳を疑った。
   ダンテが、弾いてくれるだって? 俺のために。しかも、歌ってもいい、だって?
   くらくらとめまいがしそうだった。湖を眺めていたらとつぜん女神があらわれて「金と銀の斧を両方あげましょう」と言ってわけもわからず宝物をもらってしまった、みたいな状況だ。うつむいて目を閉じる。これが夢であるならばさっさと覚めてほしい。ネロはゆっくりと深呼吸した。

   うつむいたまま動かなくなってしまったネロを、ダンテは心配そうにのぞきこむ。
「おい坊や、どうしたんだ。大丈夫か」
   ダンテは狼狽してネロの肩をつかむ。するといきなりネロはダンテに抱きついてきた。
「ダンテっ!大好きだっ!」
   とつぜん抱きつかれて、ダンテはびっくりしてあわてた。ぎゅうぎゅうと強く腕を回され、首やら胸やらが締まって苦しい。ダンテはネロをひき剥がそうともがいた。
「おい、やめろ、苦しい」
   そのまま頬にちゅ、とキスをされる。このままだと本格的に押し倒されてしまいそうだと思い、渾身の力を込めてネロを無理矢理ひき剥がす。
「なんなんだお前、歌いたいんじゃなかったのか!」
   肩を押して距離をとる。ネロは熱っぽいまなざしでダンテを見つめた。
「歌いたい。それと、弾いてほしいのがあるんだ」
   それだけ言い残すと、ネロはあわてて階段を駆け上がっていってしまった。どうやらなにかを取りに行ったようだった。とりあえずは襲われずに済んだので、ダンテはほっと胸をなでおろす。どたばたとせわしない足音が事務所内に響いて、残されたダンテはなんて落ち着きのない坊やなんだとあきれた。
   やがて再びばたばたとやかましい足音とともにネロが戻ってきた。手には紙束のようなものを握りしめていた。
「これ、弾けるか」
   目の前につき出された紙を手に取ってながめてみる。それは楽譜だった。初心者バンド用にアレンジされた簡易的なスコア譜のようで、これくらいなら弾けるだろうとダンテは思った。
「もしかして、坊やはさっき部屋でこれを見てたのか?」
   訊くと、ネロは少し恥ずかしそうに頷いていた。ようやく合点がいったとダンテは納得する。
「さっきみたいに街で歌ってる人見てたら、自分でもやってみたくなって…。でも俺、楽器も楽譜も持ってないから、途中で楽器屋に寄ってみたんだ。そしたらそれが目について、気になったから買ったんだ」
   言いつのるネロの言葉の端々には期待とあこがれが少なからず含まれていて、若者特有のそのうぶな心がダンテにはとてもほほえましく映った。
「しかし坊や、楽譜なんて読めるのか」
   ぱっと見たところメロディラインにむずかしい部分は見られないので大丈夫だとは思うが、もしもまったく読めないのであれば一から教えなければいけないだろう。ダンテはそんなことをあれこれ考えた。
「それなら小さいころキリエの歌の練習に付き合って一緒に歌ったりしてたから、少しは」
   どうやら杞憂だったらしい。ダンテはネロのその見た目からは想像もつかないような経歴におどろいた。坊やが歌なんて、それも教団の歌だろうからいわゆる聖歌みたいなものなのだろう。
「ほー、坊やがお嬢ちゃんと一緒に歌を? そりゃ見てみたかったな」
   想像してみるとなかなかに面白い光景が浮かぶ。からかわれたネロはそれでも照れくさそうに鼻の下をこすっていた。こんなに楽しそうなネロは久しぶりに見る。ダンテもつられてすっかり楽しくなっていた。
「さて、それならさっそく。屋上に行くか」
   そう言って立ち上がるダンテを、ネロは首をかしげて見上げる。
「なんで屋上に行くんだよ。ここじゃ駄目なのか」
「どうせならお天道さんの下で練習したほうが気持ちよくできると思うぞ」
   こんなせまいところでやるよりも、天井のない青空の下で取り組んだほうがさわやかで面白いに違いない。今日はとても気持ちのいい晴天だから、いきなり雨が降りだすなんてこともないだろう。
   ネロもそれには反対することなく、素直に従った。


   屋上でダンテは楽譜とにらめっこしていた。見やすいようにとネロは彼の前に座って楽譜を持ってやり、紙ごしにダンテの真剣な表情をうかがった。
   いつもの人を小馬鹿にしたみたいなものではなく、また悪魔を狩るときに見せる獰猛な色の瞳でもなく、あまり見たことのないダンテの顔つきに、ネロははっきりいって見とれていた。怪しまれない程度にのぞき見て、譜面を追う目の動きや弦をおさえる指の細かな所作のひとつひとつを観察する。
   どうしてこんなおっさんに首ったけなんだろうとネロはたまに考えることがある。面倒くさがりでいつもだらけた生活をして、食べるものだって子どもみたいなものばかりで、ケンカもしょっちゅうする。けれど、結局はこの男のそばから離れることができないでいた。恋は盲目というが、本当にそうなのかもしれない。理屈では計れやしないのだ。
   ダンテが顔を上げてこちらを見る。視線がかち合った。彼は目を細めてほほえんだ。きっとネロが歌とギターに夢中になっていると思ったのだろう。
「歌ってみるか」
   訊かれてネロは頷いた。するとダンテはよし、と気合を入れてギターを構えなおし、「じゃあ始めるぞ」と前置きをする。そしてワン、ツーとボディを指でたたいてカウントをとったあと、ギターをかき鳴らし始めた。ネロはわずかに緊張しながらそれに聞き入った。やはり見事なものだった。
   もうすぐ歌い始めるべき部分にさしかかる。手を握りしめると汗ばんでしっとり湿っていた。手ごわい悪魔と対峙するわけでもないのに、ネロの心臓はどきどき鳴っていた。やがて乾いたくちびるをゆっくり開き、ひとつめの音をなぞる。余計な力が入りすぎてひっくりかえってしまったら恥ずかしいので、慎重に歌った。

   ネロの歌声は伸びのあるとても澄んだ声だった。嫌みがなく、聴きやすい。それでいてよく響いていた。ダンテはネロの歌のうまさにおどろいた。きっとキリエと一緒に歌ったりしているうちに上達したのだろう。そのままワンフレーズを歌いあげるとダンテは演奏をやめた。
「うまいもんだな」
   拍手をしてダンテは称賛した。素直な感想ではあったけれど、それを受けてネロは嬉しそうに、しかし恥ずかしそうに鼻の頭をかいていた。
「どうだ、もうちょっと練習したら街に出て歌ってみないか。坊やの歌声なら道ゆくレディたちもきっとめろめろにできるぜ」
   ダンテは手をピストルの形にしてバン、と撃つふりをする。あなたのハートを狙い撃ち、とでもいうふうに。しかしネロは首をひねって考えているようだった。
「どうした? 嫌なのか」
「うーん…、そうじゃないけど」ネロはあまり気乗りのしない様子で言う。「別にそこまでうまくないし…それに、俺はあんたとこうやっていられるだけでいいんだ」
   困ったようにはにかんでみせるネロをダンテは意外そうに見た。
「なに? お前ストリートライブがしたいんじゃなかったのか」
「そうは言ってない」
「なんだよ、俺はてっきりああやって人前で歌いたいものだとばかり思ってたぞ」
「それは…その、あんたが一緒に来てくれるなら…やりたい、かも」
   ネロはぼそぼそとつぶやく。あまりにも小声すぎてダンテには聞こえていないようだった。
「ん、なんだ? 今なんて言ったんだ」
「聞こえてないならいい」ネロはふいとそっぽを向いて、そして身を乗り出してきた。「それより、もう一回弾いてくれよ」
   ごまかされたとダンテは肩をすくめる。
「…はいはい。仰せのままに、ネロ坊や」
   苦笑して、ダンテはもう一度弾きはじめた。子ども扱いされたことにネロはじろりとダンテを見たが、なにも言わず立ち上がって晴れた空を見上げる。すると浮かぶ白い雲のしたを、数羽の鳥がじゃれあいながら羽ばたいていった。

   あの雲さえもつきぬけていきそうな歌をうたおう。飛んでいく鳥のような、まっすぐにどこまでも響く歌声を。
   ネロはふたたび歌いはじめた。高らかに歌いあげるネロに合わせて、ダンテもハミングをする。ネロはちらりとダンテのほうを見た。
   『 君と一緒に歌えるだけで
       それだけで俺は最高にハッピーなんだ 』
   歌いながら、こっそりとネロは思いを込めた。しかしダンテはそれにぜんぜん気づかない。こらえきれなくなって吹き出すと、ダンテはいきなり笑いはじめたネロを不審がって見上げていた。ちょっとだけ怯えたようなその表情にどうしようもない愛しさをおぼえて、ネロはダンテの広い背中を抱きしめる。
   はじめダンテはやめろだとか苦しいから離せだとか言ってやかましくしていたけれど、首筋にやさしくキスを落とすと縮こまっておとなしくなった。
「ダンテ、今日はありがとう」
「…まあ、俺も坊やのかわいい顔が拝めたからな。別にかまわないさ」
   後ろ手に腕を伸ばしてきて、ダンテはネロのくせのある髪をくしゃくしゃとなでた。遠くで鳥のさえずりが聞こえる。鳥たちのハミングが耳の奥で心地よい響きを奏でた。それからネロとダンテは日が暮れるまでずっと歌いあっていた。
   ふたりにとって今日はまさに『最高の日』に違いなかった。
 

 

 

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