チェイス
ソファから立ち上がる。それに続いて、背後でも誰かがソファから立ち上がる音をネロは聞いた。からっぽになったコップに水を注ぐためにキッチンへ向かう。ネロの歩く速さよりもすこし遅い足音がうしろをついてくる。蛇口をひねって、出てきた水をそのままコップで受けとめ、一気にあおる。ひと息ついて、ネロはくるりと振り返った。
「あのなあ」
ぴったり三歩ぶん空いて、黒いダンテが立っていた。
「なんでついてくるんだよ」
ネロが言った。黒いダンテはやや間をおいてから、真一文字に結んでいた口をゆっくりと開く。
「…だめなのか」
「だめとかそういうのじゃないけど」
なんかうす気味悪い。ネロがそう言うと黒いダンテは首をかしげた。
ネロは口をへの字に曲げてむう、とうなる。これ以上説明のしようがないから、もうこの話はやめようと思った。そして、たまっていた洗濯物を洗って、干さなければいけなかったことを思い出す。
シンクの中にコップを置いてキッチンを出る。黒いダンテもネロを追いかけてキッチンを出た。
どうして彼がついてくるのか、ネロにはさっぱりわからなかった。デスクにだらしなく足を乗せていたダンテは大人の男性が見るような破廉恥な雑誌を読みふけっている。その前を通り過ぎ、二階へ向かう。ぴったり三歩うしろを、黒いダンテがついてきた。ダンテは雑誌から顔をあげて、それらを目で追う。
しばらくして、ネロが二階からおりてきた。黒いダンテはやっぱりうしろをついてくる。まるでカルガモの親子だな。ダンテは思った。
「ヘイ、楽しそうだな坊や。なんの遊びだ?」
言うと、ネロはぎろりとダンテをにらむ。持っていた洗濯カゴがダンテに向かって飛んできた。ひょいとかわしてダンテはからからと笑う。
ネロは険しい表情のまま歩み寄ると、ダンテの頭にげんこつを喰らわせた。
「いってえな、何するんだ」
人間のほうの手で殴ったのは、ネロのせめてもの自制心の表れだった。目の前で星がちかちかと瞬いている。ダンテは何度もまばたきをした。ちかちかがおさまったとき、黒いダンテがいつのまにかネロのうしろに立っていて、ダンテはそれがおかしくてまた笑いだした。
「なにがおかしいんだよっ」
ネロはむきになって腕をぶんぶんとふりまわした。
「だって、おまえら、ぴったりくっついてるから」
指さすとネロはぎくりとして黒いダンテを振り返る。
「こいつが勝手についてくるんだよ」
きまり悪そうにネロは言う。黒いダンテはなにも言わずネロを見ている。
「まあ、今日は坊やについてまわりたい気分なんだろう。しばらく好きにさせておけばいいさ」
自分の影なのに、ダンテはこの黒い影の考えることがよくわからなかった。彼がその日なにに興味を持つかなんて、ダンテ自身にも予想できないのだった。けれど、これといって害があるわけでもないので、いつもそのままほったらかしにしていた。
「飽きたらやめるだろ」
そう言ってダンテはまた雑誌に目を落とした。ネロはちらりと黒いダンテを見る。彼はまだそこに立っている。いったい何が楽しくて彼はついてくるのだろう。ネロは心底不思議に思った。
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