レインコーラー
 

 

  店の外に出ると、雨が降っていた。
   厚い雲を見上げ、ネロはしまったな、とちいさくつぶやく。天候が悪くなるとは思っていなかったから、傘を持ってきていなかった。
   一緒に買い物に来ていた黒いダンテも、店の軒先ぎりぎりに立って曇天を見上げていた。コートのはしがはね返る雨粒で濡れそぼつのもかまわず、針のように降りそそぐ驟雨(しゅうう)を見つめている。
   ぶら下がった彼の手を軽くひき、濡れたコートを顎で指して示唆してやると、黒いダンテは数度目をぱちぱちとさせてから引かれるままネロの方に下がった。
   これでは二人そろって濡れねずみになってしまう。ずぶ濡れのまま帰ればダンテになにを言われるかわからない。それに事務所を雨や泥で汚したくはなかった。あのぐうたらなダンテがこまめに掃除などするはずもなく、結局はネロが床やら机やらをきれいにする羽目になるのだ。
   ネロは少し考えて、ポケットから財布を取り出した。
「すぐ戻ってくるから、ちょっと待っててもらってもいいか? あとこれ、持っててくれ」
   買ったものでぱんぱんにふくらんだ袋を押しつけ、ネロは今さっき出てきたばかりの店にふたたび戻っていった。
   手持ち無沙汰になった黒いダンテは、雨音と人々の喧騒が混じったいびつな合奏を聴きながら、行きかう人の波をながめていた。嬉しさに心おどらせて家路につくもの、悩みをにじませて働きに出るもの、気が急いていくつもの肩とぶつかりながら早足で行くもの、泥酔してまともに歩くのもままならないもの。街は無調音楽のごとく複雑な音であふれかえっていた。
   しかしまれに、その雑多とした音の中から彼と同じ波長を放つものに出会うことがある。それはたとえば、今日のような雨の日などに。
(……あの黒い傘の男)
   ざわめく人ごみの中、ひとりの男に視線を合わせる。するとその男はこちらを見て、にこり、とほほえんだ。まるでこちらが見ているのを確信しているかのように、迷いひとつない表情で。
   …雨降らし ――レインコーラー――、か。
   確証などない。だが、おそらく当たっているだろう。男はゆっくりと歩みながら一瞬目を伏せ、そして前に向きなおる。漆黒の傘とともに彼は人々の生活の波にのまれていき、やがては姿が見えなくなった。
   悪意は微塵も感じなかった。男の笑みはまさしく人のそれだった。同族だからこそ感じ取れる、悪魔のニオイ。それがなければ誰もが彼を人間だと思うのだろう。人には見ることができないけれど、人と悪魔のあいだ、そこには確かな線引きがあって、その人間ではない側、悪魔の側に先の男はいた。そして、黒いダンテもまた、そうだった。
   人間社会のなかに紛れこみ、彼らとともに生を共有する。そんな悪魔もいる。目的はさまざまで、たいていは捕食するためだったり、力のもととするためだったりする。しかしまれに、ほんとうに人が好きだから紛れこむものもいる。心の底から人を愛し、人にあこがれ、人になろうとする悪魔。魔界ではそんなものたちは蔑みの対象でしかない。だからこうして流れ着くように人の世へとやってくるのだった。
   そういった連中は、出くわしたとしてもちょっかいを出してくることはそれこそまれだった。なにかされたとしても無視を決め込むのが得策で、せっかくの彼らの安寧を邪魔するのもよろしくないのですみやかにその場を立ち去ることにしている。
   しかし、もしもそれが善ではなく悪だったとしたら。温厚な人間びいきのものたちとは対極に位置する、絶対的な悪意をもって襲いかかるものたちであったなら。
   斬り伏せるか。正義をもって。だが、正義とはなんだろう。刃を向けられる側からすれば、人間を襲うことこそ正義であるはずだ。正義など、それぞれが違うかたちで内に持っているものだった。
   自分がなにを考えているのかわからなくなって、黒いダンテは苦しげに目を閉じ、かすかにうなる。気持ちが悪い。悪魔なのに、そんなこともあるのかと新たな発見を前に他人事のような感想を心のなかで述べる。ネロに持っていてくれと頼まれ預かった荷物が腕の中から落ちそうになり、かかえ直す。そのうち立っているのも辛くなって、手近にあったベンチにふらふらと腰を下ろした。
   雨はまだしとしとと降りそそいでいた。あの男がどこか遠くへ行ったのなら、この雨もじきに止むだろう。
彼が降らせたものだという確かな証拠はない。けれど、この直観は今までほとんど外れたことがなかった。それは悪魔の気配の薄まったこの世界にきてから、なおのこと強くなっていた。
   魔のにおいに敏感になっているのかもしれない。人のなかにぽつりと紛れたそれは、魔界にいるときよりもずっとずっと目立つ。だから、個の本質を見抜きやすくなっているのかもしれなかった。
ふと黒い傘の下の、あの人懐こいやわらかな笑顔がまぶたの裏に浮かぶ。彼もまた、こちらを見て同じような思いを抱いていたのかもしれない。あの男だって自身の正義を貫くため、守るため、確固たる意志をもってここにいるのだろう。
   あのとき一瞬だけ交差した視線は、互いを励ましあうかのような確かさを持っていた。
   …また、会えるだろうか。
   もしまた彼に会えたなら、なんと言葉を交わせばよいのだろう。自分が知っている言葉はあまりにも少ない。考えることはできても、形にするのが苦手だった。できることなら、考えているまま相手に伝えられたらいいのにと思う。
   そんなことを考えていると、ふと聞きなれたフレーズが耳の奥をかすめた。

――悪魔に関するご用命は、デビルメイクライへ。
      電話一本でどこへでもお伺いします。

   黒いダンテは目をぱちくりとさせた。
   これはネロがふざけて(もしかしたら本人は真面目にやっているのかもしれない)言っているデビルメイクライの宣伝文句だった。少しでも客を増やそうと考えているのか、ダンテに言えよ言えよと食い下がっているのをたまに見かける。そして当のダンテは笑ってやんわりと拒否するのだ。
   悪魔の知り合いができたら、これを言おうか。困ったことがあればすぐに駆けつけると。客が増えれば、ネロもダンテもきっと喜ぶだろう。悪魔に対して悪魔退治の事務所の宣伝なんて、どこかずれている気もするけれど。
「あ!」
   聞きなれた声がした。振り返ると、傘を持ったネロが立っていた。
「なあ、今あんた、笑ってたのか」
「…そうなのか?」
   自分ではよくわからず、黒いダンテは首をかしげる。たまにではあるが、ふとした拍子にネロに「いま笑ってた」と指摘されることがある。まったくの無自覚なので、そのとき自分でどんな表情をしていたのかなどは自身でもさっぱりだった。でも、ネロが言うのならそうなのだろう。
「なに考えてたんだよ」
「……言わない」
   そう返すと、ネロは驚いたような顔をしていた。
「なんだよ、いつもなら素直に教えてくれるのに。…あ、まさか。なあ、悪魔にも反抗期ってあるのか?」
「…反抗期ってなんだ?」
「ごめん俺が悪かった」
   ネロは店で買ってきたらしい、真新しい傘を広げると、黒いダンテの腕を引いて立ち上がらせた。
「これ一本しか買ってこなかったから、ちょっとせまいけど一緒に入ろうぜ」
   多少なりと周りの目が気になるのか、照れながらネロは言う。黒いダンテはこくりとうなずくと傘に入った。濡れてしまわないよう、荷物を傘の内側に持ってきてかばいながら、店の軒先を離れた。
「雨、さっきより小降りになってきたな」
   空を見上げてネロは言う。鈍色だった雲はさっきよりも薄く、白みがかってきていた。
「通り雨だったみたいだな」
   ネロは安心した様子をにじませていた。誰だって、雨が降れば濡れたくないと急くのだろう。篠突く雨に打たれて立ちつくす孤独を、黒いダンテは嫌だと感じたことはない。
   けれど彼ら人はそうではなかった。人は孤独の中では生きていけない。彼らは互いに寄り添い、支えあい、助け合って生きている。それが人の、何ものにも代えがたい唯一のあたたかさなのだった。

   …そうか。そうだったのか。

   黒いダンテは考えていた。どうして人といるだけでこんなにもあたたかな気持ちになれるのだろう、もっとそばにいたいと思うのだろうと。ずっとずっと、考えていた。
   しかし、その答えはもうとうに見つけていたのだ。それはこころの奥で確かに感じていたもの。俺はきっと、それが。
「…ネロ、」消え入りそうなか細い声で黒いダンテはつぶやく。「…なんとなく、わかったんだ」
   ふたりは往来の真ん中で立ち止まる。ぱらぱらと音を立てる雨粒にまぎれて聞き逃してしまわないように、ネロはじっとその顔を見つめてつづく言葉を待っていた。
「…俺はきっと、人のあたたかさが……好き、なんだと思う」
   他者を思いやる気持ちや、だれかを愛おしむ気持ち、ときには喧嘩をして思いをぶつけあうことも、悲しみに暮れるときにこぼれ落ちる涙さえも。そのひとつひとつがきらきらと輝いて、そしてあたたかかった。
   その思いを言葉にしようと、伝えようと口を開く。しかし、その気持ちを声にすることはかなわなかった。
   言葉が、足りない。
   心のうちではこんなにも思いがうずまいているのに、それを言葉にできないのがとてももどかしかった。
   言葉に詰まり、口をつぐんでしまった黒いダンテの髪を、ネロはさらさらとやさしく撫でた。
「そうか。分かってよかったな」
   ネロは目を細め、おだやかな表情で言う。
「…うまく言えない、けど」
   もどかしそうにそう言う彼の胸のうちを見透かしたかのように、ネロはしきりに大丈夫だと笑う。
「ああ、わかってる。わかってるよ」
   ネロは少しだけ眉尻の下がった、困惑とも自嘲ともとれない顔をする。
「俺だってうまく言えないことはたくさんある。心の中で思ってることをそのまま相手に見せられたらって思うときだってある。そうすればもどかしい思いなんてしなくて済むからな」
   傘を逆の手に持ちかえると、ネロは黒いダンテの肩に腕をまわして抱き寄せた。
「でも、無理に言う必要なんてないんだ」
   傘を深くかぶるようにして周りの視界を遮る。ほんの少し背伸びをして、ネロは黒いダンテにやさしくついばむほどのキスをした。
   顔が離れて、黒いダンテはきょとんとした、状況が理解できていないようなまなざしを向ける。
「…『言葉はいらない』ってやつだぜ。覚えときな」
   自分でもこれはどうだろうかと顔を赤らめながら、ネロは恥ずかしそうに、しかし力強く言った。
「…っ、ほら、もう帰るぞ!」
   ネロはぷいとそっぽを向き、赤らむ顔を隠してしまう。手をつかんで引っ張ろうにも、黒いダンテは荷物をかかえているため両手がふさがっている。ネロは仕方なくそのまま歩き出した。
「……もし」
   伏し目がちに、黒いダンテがそっとつぶやく。彼のそのちいさな言の葉を、ネロは聞き逃すまいとじっと耳をそばだてた。
「…もし、もっと言葉を覚えられたら……、そのとき、今よりもうまく言えるようにする」
「…ああ、楽しみにしてる」
   傘のそとに手をかざしてみると、もう雨はほとんど止んでいた。けれど、気づかないふりをしてネロは傘をさし続ける。この傘の下が、ふたりだけのとっておきの場所のように思えていたから。
   それは言葉にできない、内緒の気持ち。

 

 

 

Back