闇の中ひとり、光に向かい
深い闇の中にただひとりだけ放り出されたような、そんな存在。
そこから生まれ、そこで消えゆく、はかなく淡い、ちっぽけで憐れな悪魔。
「それ」は光を恐れてか、いつも暗がりを好んだ。うれしいも悲しいも楽しいも、よくわからない。ただ、自分がひとりぼっちであることだけはよくわかっていた。
自分以外の誰かに出会うときは、その者の命を奪うとき。何者にも知られず影に生き、ひそやかに消えゆくはずだった。
しかし、そんな自分なりの平穏は、目の前のこの男によってある日突然奪われてしまう。
ひさしぶりの獲物。はじめはただそうとしか思わなかった。だが、獲物はどうやら自分の方だったようだ。
彼は強かった。自分などとは比べるべくもない。しょせん影は影。物真似でしか生きることのできなかった自身の体がじわりじわりと消えゆくのを感じたとき、心のどこかで
(ああ、やっと終わるのか)
そう、考えていた。
楽になれる。そう感じる心が自分にもあったのだと、死の間際になってはじめて思い知った。そもそも、心とはなんなのだろうか。自分は悪魔だ。そんなもの、わかるはずがない。
薄れゆく意識の中で考えたのは、そんなことばかりだった。
はたして、今はどうか。
あの日自分に手をさしのべた(実際にそうしたわけではないけれど)男はいま、目の前のデスクで愛用の銃の手入れをしている。自身は何をするでもなくただソファに座り、それを眺めていた。そして隣では若い男がひとり、自分に寄りかかるようにして本を読んでいる。
暇だとかそういう概念はなかった。今までもただ待ち続けるだけの日々だったから。視線だけを泳がせじっと彼らを眺めていた。
そのうち「主」――あの日から彼のことは名前、もしくはそう呼ぶことに決めていた――は疲れをにじませたように大きく息をつくと、終わった、と少し嬉しそうに言って伸びをした。
「やっと終わったのか」
隣にいた男はぱっと顔を上げる。彼もまた嬉しそうな顔をしていた。そして立ち上がると主の方へ寄っていき、椅子に腰を下ろしている主をうしろから抱きしめた。
「腹減った。なんか食いたい」
「彼」は、ある日ここにやってきた。はじめこそ自分を見て驚いてはいたものの、敵意は見せてこなかった。彼もまた、悪魔の血が流れているという。いつだったか、少し悲しそうに話していた。
彼は、なにも知らない自分に優しくしてくれた。知識を与え、さまざまな時間を共有してもくれた。共にいると、とても心地よかった。これがいわゆる「好き」というものなのかもしれない。漠然とそう思った。
普段、自分は主の影の中にいる。そこではいつも、彼といるときに感じる心地よさと似たものを感じていた。還るべき場所。言葉にするならば、そういうものなのだろうか。
たまにそこから勝手に抜け出すと、主はあきれた顔で自分をたしなめた。たまに出してやってるだろう。そう言っていつも苦笑していた。
彼らはまだ、他愛もない雑談に花を咲かせている。楽しそうだ。それは、なんとなくわかった。
そういえば、前に一度だけ「彼」に怒られたことがある。
悪魔と戦っているときに、彼をかばったのだ。自分にとっては取るに足らない、気にするほどでもない程度の負傷だった。
自分は主の影なのだから、主が存在しうる限り死ぬなどということはない。それでも、彼は今までに向けられたことのない剣幕で自分を叱った。
彼が傷つくのは、嫌だった。だから、かばった。しかし、それは彼の方も同じだったようだ。側にいた主はちょっと困ったように自分と彼とを見ていた。
「なあ、あんたはなんか食べたいものあるか?」
どうやら、彼は自分に問うているようだった。かたわらで主がピザでいい、なんて言っていたが、彼にとってはどこ吹く風のようだ。
「…よくわからない」
「よし、じゃあやっぱりピザにしよう坊や」
「却下だ」
このまま放っておけば喧嘩に発展するのではないだろうか。ふたりのことはいつも見ているので、なんとなくそんな気がする。
そこでふと、思い返す。自分には、名前というものがない。
ときには主と同じ名で呼ばれることもあったが、彼らは別段自分に名をつけるということはせず、なんとなくで過ごしてきた。それでも特に今までこれといった不便も感じなかったからだ。それは、彼らも同じのようだった。
名など、なくてもいいと思う。もしもまた道に迷っても、彼らが手をさしのべてくれるから。
自分を闇から連れ出してくれた「主」は、今も先へと続く道を示してくれる。やさしい「彼」は、薄闇にぼんやりとした道を明るく照らしてくれる。求めなくても、彼らが導いてくれた。
もう、光は怖くなかった。いま、自分はひとりではないから。
闇の中にいたちっぽけで憐れな悪魔は、いつしか光に向かって歩み出していたのだった。
「仕方ないな、わがままな坊やのために、今日はどっかに食いに行くか」
「賛成」
主は面倒くさそうに言っていたが、まんざらでもなさそうだった。傍らの彼は、嬉しそうにしている。
「ほら、行こう」
そう言って、彼は自分に向かって手をさしのべる。握り返すと、その手はあたたかかった。
掴みかけた光は、もうすぐそこにある。もしかしたら、もう。
いつか、孤独さえも忘れて、喜びにほほえむ日々が来るように。悪魔でも、幸せに笑うことができる。自分はそれを知ることができた。
ふたりに出会えて、本当に良かったと思う。
いま、愛するふたりに「ありがとう」を。
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